「何型?」
飲みの席などで、ときどき血液型の話になることがあります。たまに会う人からは、A型っぽいよね、と言われることが多いです。一方で、わたしをよく知る人からは「典型的なB型だよね」と言われます。同じわたしなのに、見る人によってずいぶんと違いがあります。
もちろん、血液型で性格が決まるとは思っていません。ただ、こういうやりとりがあるたびに、少し面白く感じます。ああ、この人には、わたしがこう見えているんだな、と。
たしかに、相手によって見せている自分の姿も違う部分があると思います。たまに会う人と、長い時間を一緒に過ごしてきた人では、知っているわたしは違いますし、実際にわたしが相手に見せているわたしも違います。
けれど、どちらも嘘のわたしではありません。そして、どちらの人が知っているわたしも、わたしの全部ではないのです。血液型の話なら、笑って済ませられることもあります。でも、これが別のことだったらどうでしょう。
「あなたって、こういう人だよね」
そう言われたとき、相手が見ている自分と、自分が知っている自分が違うこと、よくあります。もちろん、そう見えること自体が間違いなのではありません。自分でも、そう見せようとしている部分があるのかもしれません。
でも、その一部分だけで、わたしの全部を知ったつもりになられると、やはりわたしは違和感を覚えるのです。
人はそれぞれ、違う人生を生きています。生まれた場所も、育った環境も、出会ってきた人も、経験してきたこともすべて違います。その積み重ねの中で、ものの見方や大切にするものも変わっていくのだと思っています。そしてそれがその人の個性であり、人となりを作っていく主な材料になるのかな、と。
だから、目の前にいる人が、どうしてそこにいるのか。どうしてそう考え、そう行動するのか。その理由を、外から見ただけで知ることはできません。それなのに、わたしたちは、ときどき相手の理由を勝手に作ってしまいます。
「あの人は、ああいう人だから」
「きっと、こういう事情があるんだろう」
悪い理由を考えたときだけではありません。「きっと何かつらい事情があるんだろう」という思いやりから生まれた想像も、本人が語ったものでなければ、やはり想像。
そう、善意であっても、想像は想像。
そして、誰かに理由を決められた人は、ときに、その理由が違うことを自分で説明しなければならなくなります。「そうじゃない」と伝えるために、話したくなかったことまで話さなければならないようなこともきっとあるでしょう。
でも、誰かが勝手に作った答えを訂正するために、自分の人生を説明する義務なんて、あるのでしょうか。
わたしは、ないと思います。
だからこそ、相手のことを知りたいと思ったときには、勝手に答えを作るのではなく、その人のことばを聴きたいと思います。その人が、どんなふうに生きてきたのか。何を見て、何を感じ、どんなことを大切にしてきたのか。
自分とは違う人生を生きてきた人の話には、自分がまだ知らない世界がたくさんあります。そしてそれは、自分には経験することができません。わたしは、その人ではないからです。興味を持つから、知りたくなる。わからないから、知りたくなる。理解したいと思うから、聴く。
それは、自分が考えた答えの正しさを確かめるためではありません。その人自身のことばを受け取るためです。もちろん、知りたいからといって、何でも教えてもらえるわけではありません。話したくないことは、話さなくていい。
相手のことを知ろうとすることと、相手に説明を求めることは、同じではありません。理由がぜんぜん違います。
相手のことを知ろうとすることは、相手を尊重したいから。相手に説明を求めることは、たいていが求めた側が満足したいから。満足させられなければ、不十分だったことにされてしまう。そもそも、説明って求めるものなのかが疑問です。説明したいと思えばすればいい。でも、聴く側が求めるものではないと、わたしは思うのです。
誰かの考えが、自分とは違ったとき。誰かの行動が、理解できなかったとき。「あの人は、そういう人だから」と自分のなかだけで勝手に答えを出す前に、少しだけ立ち止まってみたい。そして、もし話してもらえるのなら。
あなたには、どう見えていて、そしてどう思っているのか。
聴かせてくれることが、わたしは嬉しいのです。



