男の子は、乗り物が好き。
女の子は、お人形遊びが好き。
男の子が着るTシャツには、車や電車の絵が描かれていて、女の子が着るTシャツには、リボンやお花が描かれている。
そんな光景を、わたしたちは日常の中で当たり前のように見ています。でも、ふと思うのです。
誰が決めたのでしょう。
もちろん、乗り物が好きな男の子も、お人形遊びが好きな女の子もいます。それ自体は、何もおかしなことではありません。けれど、男の子がお人形を好きでも良いのではないでしょうか。女の子が乗り物を好きでも良いのではないでしょうか。
「女の子なんだから」
子どもの頃、「女の子なんだから、足を広げて座らないの」と言われた記憶があります。そのとき、わたしが何を思ったのかは覚えていません。おそらく、スカートを履いていたのだと思います。足を広げて座ると、下着が見えてしまう。だから、気をつけてほしかったのかもしれません。
もちろん、本当の理由はわかりません。
ただ、今になって考えると、少し不思議なのです。もし下着が見えることを心配していたのなら、そう伝えればよかったのではないでしょうか。なぜ、そこに「女の子なんだから」ということばが必要だったのでしょう。
「男の子なんだから、泣かないの」
「女の子なんだから、おしとやかにしなさい」
「男の子なんだから、強くならなきゃ」
「女の子なんだから、そんなことをしないの」
こうしたことばも、どこかで耳にしたことがあるかもしれません。大人は、子どものことを思って言っているのかもしれません。自分自身も、そう言われて育ってきたのかもしれません。
けれど、そのことばの中には、子ども本人が選んだわけではない「男の子らしさ」や「女の子らしさ」が含まれているように思います。
「好き」は、誰が決めるもの?
おもちゃ屋さんに並ぶ商品を見ていると、男の子向け、女の子向けという分け方に出会うことがあります。服もそうです。色や柄、形によって、誰に向けた商品なのかが、なんとなくわかるようになっています。
けれど、それは子どもたちが自分たちで決めたことなのでしょうか。
小さな子どもは、自分で服を買いに行くことができません。おもちゃも、大人が選んで買い与えることがあります。大人が選んだものをきっかけに、子どもが何かを好きになることもあるでしょう。もちろん、その「好き」という気持ちが偽物だとは思いません。ただ、もし最初から選べるものが限られていたとしたら、どうでしょう。
男の子だからと乗り物のおもちゃばかりを与えられた子が、乗り物を好きになったとして。その子は、ほかのものを好きになる機会も同じように持っていたのでしょうか。女の子だからとリボンのついた服ばかりを選んでもらっていた子が、ピンク色を好きになったとして。
それは、その子が自分で選んだ好みなのでしょうか。
それとも、大人が用意した選択肢の中から選んだものなのでしょうか。
わたしには、簡単に答えを出せません。
そもそも、人が何かを好きになる理由を、ひとつに決めることはできないと思うからです。
いつの間にか、自分の「当たり前」になる
わたしたちは、子どもに何かを伝えるとき、つい自分が知っている「当たり前」を基準にしてしまうことがあります。
男の子なら、こういうもの。
女の子なら、こういうもの。
そうした考え方は、家庭だけで生まれるわけではありません。お店に並ぶ商品や、テレビ、広告、学校、周囲の大人たち。日々の暮らしの中で、少しずつ形づくられていくものなのでしょう。
そして、大人自身もまた、その中で育ってきました。
かつて「男の子なんだから」「女の子なんだから」と言われていた子どもが、大人になり、今度は同じことばを子どもにかける。それが当たり前だったからこそ、疑問を持つこともなく、口にしてしまうのかもしれません。こうして、社会の中で繰り返し触れてきた「男の子らしさ」「女の子らしさ」が、いつの間にか自分自身の当たり前になっていくことがあります。
これは、ジェンダー規範の内面化と呼ばれることがあります。
例えば、男の子が人形を手に取ったとき。「お人形が好きなの?」と、思わず驚いてしまうことがあるかもしれません。
女の子が電車のおもちゃを選んだとき。
「男の子みたいだね」と、声をかけてしまうこともあるかもしれません。
でも、その驚きは、どこから生まれたのでしょう。子どもが自分の好きなものを選んだだけなのに、わたしたちはそこに、性別という意味を付け加えてはいないでしょうか。そして、そのことばを聞いた子どもは、何を思うのでしょう。
「わたしがこれを好きなのは、変なのかな」
そう感じる子もいるかもしれません。反対に、何も気にしない子もいるでしょう。大人が思っていることと、子どもが受け取ることは、必ずしも同じではありません。
ただ、もし何かを選ぶたびに「男の子なのに」「女の子なのに」と言われ続けたら。その子は、次に何かを選ぶとき、何を考えるのでしょうか。
自分が好きかどうか。
それとも、男の子らしいか、女の子らしいか。
わたしたち大人が何気なく口にすることばは、子どもの選択に、どのように関わっているのでしょう。
そのことばは、誰のため?
「男の子なんだから」
「女の子なんだから」
そのことばを口にするとき、わたしたち大人は、何を伝えようとしているのでしょう。子どもを守ろうとしているのでしょうか。周囲から浮かないようにしてあげたいのでしょうか。自分が教わってきたことを、同じように伝えているのでしょうか。それとも、ただ、そのほうが大人にとって都合がいいのでしょうか。
理由は、きっとひとつではありません。
そして、すべての大人が同じ考えで、そのことばを口にしているわけでもないでしょう。けれど、そのことばを受け取る子どもには、どんなふうに届いているのでしょう。
もし、その子が自分で選んだものを、大人が「男の子なんだから」「女の子なんだから」という理由だけで否定してしまったら。その子は、次に何かを選ぶとき、何を考えるのでしょうか。わたしたち大人にも、立ち止まって考えられることがあるように思います。
「男の子なんだから」「女の子なんだから」
そのことばは、本当に、その子のためにあるのでしょうか。



